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1834年 イギリス東インド会社が 作ろうとしていた紅茶を再現しました |
1833年、それまで独占していたイギリス東インド会社の中国茶貿易が解禁されます。利益を独占できなくなった東インド会社は、当時イギリス領だったインドで紅茶を生産しようと、中国からお茶の種を輸入し、優秀な中国人製茶技術者を雇い入れ、インド各地に苗木を送って、茶園開発を進めます。 ちょうどその頃、ブルース兄弟によりアッサムでアッサム種の茶樹が発見されました。 アッサムが茶園開発の最適地だと考えた東インド会社は、カルカッタ植物園館長ウォーリッチ博士をブルースの元へ派遣し、本格的な茶園を開発します。 | 1834年に輸入された茶樹の碑(1837年建立) ブルース、ウォーリッチの名前が刻まれている |
今も残る東インド会社が中国から輸入した茶樹。BURUCE TEA はこの葉 で手揉みで作られた | そのブルースが開発したインド最初の茶園、ジャイプール茶園には、今もその時の中国から輸入した茶樹が残っています。 現在ジャイプール茶園を所有するインドのSPBP社オーナー ディレンドラ・クマール氏の協力によって、その中国から輸入した茶樹の葉だけを使い、当時の製法そのままに、完全な手揉みで東インド会社が作ろうとしていた紅茶を再現しました。 当時の紅茶の製法は、まだ完全に紅茶の製法が確立されておらず、烏龍茶から紅茶の製法が出来上がる過渡期の製法です。 |
また、茶樹自体も中国から輸入された中国種の茶樹ですから、アッサムで作られた紅茶ですが、ミルクティーに合うアッサム紅茶ではなく、烏龍茶に非常に近い味と香りを持っています。
実は、最初のインド紅茶はこの茶樹の生育を待たずに、自生のアッサム種の葉で作られました。ですから、このブルースティーは最初のインド紅茶ではありません。 しかし、東インド会社が中国から輸入した茶樹で、中国人技術者の製法で製茶したということは、まさに当時、東インド会社が中国から輸入していた紅茶の再現です。 つまり、アヘン戦争をしてまでイギリスが欲しがった紅茶こそ、この紅茶だったのです。
左 SPBP社 社主 ディレンドラ クマール氏 右 ジャイプール茶園 マネージャー サッカー氏 中央 紅茶専門店 TEAS Liyn-an 店主 | 現在のアッサム・ジャイプール茶園の茶摘み風景
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