紅茶専門店 ティーズリンアン 店主のブログ

紅茶専門店の店主が語る 紅茶の真実

カングラの紅茶の話

   

カングラという紅茶の産地をご存知でしょうか?

リンアンのお客様であれば、カングラをご存知でしょう。
しかし、一般的にはカングラというお茶の産地はほとんど知られていません。

カングラがどこに有るかと言えば、インドの西の端に近い辺り。ダージリンと同じくヒマラヤの山麓に位置します。
同じヒマラヤの山麓と言っても、ダージリンはネパールの東側。ブータンとネパールに挟まれた狭い地域にあるのに対して、カングラはネパールの西側。
ネパールを挟んで反対側のヒマラヤの産地に有るのです。

GoogleMaps の航空写真にカングラとダージリンの場所をプロットしてみました。

この航空写真を見れば、カングラとダージリンが、ほぼ同じような地形で有り、ほぼ同じような気象条件だという事がすぐに理解できるでしょう。

実はカングラは、インドでもっとも古いお茶の産地のひとつなのです。

19世紀半ば、インドはイギリスに占領され、ビクトリア女王がインド皇帝を兼ね、インドはイギリスの支配下にありました。つまり、当時、インドはイギリス帝国の一部でした。
当時すでに紅茶はイギリスの国民的飲料であったにも関わらず、その供給は中国に頼るしかありません。
当然のごとく、イギリス国内、つまり、インドでの紅茶栽培の機運が盛り上がります。

しかし、インドを支配していた東インド会社は中国茶の貿易を独占していたため、インド国内でのお茶の栽培には乗り気では有りませんでした。

が、1813年から東インド会社の中国貿易の独占は徐々に解除され、1833年、絹とお茶貿易の独占が解除され、民間が中国茶貿易にも進出してきます。
そこでやっと東インド会社もインド国内でのお茶の栽培に取り組むのです。
1834年、中国からお茶の種を輸入しカルカッタ(現コルカタ)で24,000本の苗木に育て、インド各地のお茶が育ちそうな土地に送り、実験栽培を始めました。

その10年程前、ロバートブルースがアッサムの奥地でジュンポー族がお茶の栽培をしているのを見つけます。
ただ、ロバートは病に侵され、翌年弟のチャールズブルースが持ち帰ったお茶の木はカルカッタに送られたのですが、イギリス人は葉の小さい中国種の茶樹しか見たことが無かったため、大きな葉のアッサムの茶樹は茶の木とは認められませんでした。

しかし、東インド会社が茶の栽培に舵を切ったため、アッサムの茶樹はもう一度カルカッタに送られます。
今度は製茶したお茶と共に。

これによってアッサムの茶樹は正式にお茶の木として認められ、お茶栽培の最有力候補となっていきます。
カルカッタ植物園の園長のウォーリッチ博士もアッサムに赴き、チャールズブルースと共にお茶の栽培実験が始まりました。
最初はサディアに植えられたのですが、そこはブラマトゥラ川の川洲だった土地。
根が水に浸かると育たない茶の栽培には向かない土地でした。
そこで近くのジャイプール(デリー南西の大都市ではなく、アッサム州ディブルガールの地方都市)に植え直され、そこで育てられました。
最初のイギリス帝国産(インド産)紅茶は、このジャイプール茶園で作られたのです。
ただ、この当時、最初にインドで作られた紅茶に対して賞金がかかっていたため、チャールズブルースはまだ育っていない中国の茶の木ではなく、周辺に生えていたアッサム種の茶の木で製茶したのです。
それがイギリス人好みのミルクティーにぴったりの紅茶だったために、アッサム種の茶の木が中心で茶園開発が始まっていきます。

中国から輸入したお茶の木がどうなったかと言えば、送られた各地で栽培実験をするのですが、成功したのはウッタラーカンド州のクマーウーンだけだと言われています。
しかし、そのクマーウーンは、産地としては成功せず、隣のヒマチャル・プラデッシュ州のカングラで1849年ジェームズン博士によって茶園が作られ大きな産地に発展していったのです。
ダージリンはと言えば、1834年当時はまだシッキム領であったため、カルカッタで作られた24,000本の中国種の苗木はダージリンには送られず、その後、クマーウーンから運ばれることになります。つまり、ダージリンとカングラはネパールを挟に東と西に分かれた兄弟のようなお茶の産地なのです。

こんな経緯で、アッサムと並ぶ古いお茶の産地であるにもかかわらず、ほとんど知られていないのには訳が有ります。

1905年4月4日。マグニチュード7.8の地震がカングラ地方を襲いました。死者2万人といわれる大地震でした。
茶園を経営していたイギリス人の殆どはカングラを諦め、イギリス本国に帰国してしまいます。
これにより、お茶の産地としてのカングラは、ほぼ壊滅してしまったのです。

21世紀に入り、そのカングラを復活させようという機運が盛り上がってきます。
カングラの茶産業はイギリス人の撤退により、ほぼ壊滅してしまったのですが、生き残った茶園も有りました。

それがリンアンが輸入しているワー茶園です。
ワー茶園は1905年の大地震でも、奇跡的に生き残りました。
そしてワー茶園はイギリス人の経営ではなく、パキスタンのワーの王族の経営だったのです。
その経営は1953年にチャイワラファミリーに引き継がれ、今日に至ります。
現在のオーナーは3代目、そして4代目にあたります。

その他にも若干生き残った茶園、復活した茶園がいくつかあり、現在有名な茶園はマン、フードル、トーワ、パランプール、ダラン等の茶園が有ります。
そしてその他にスモールティーグロワーと呼ばれる小農家は、ティーボード(紅茶局)に登録されているだけでも757を数え、一説には5,800ともいわれます。
かってカングラがいかに大きなお茶の産地だったかが分かると思います。

そんなカングラでは、ティーボードの支所も作られ、昨年からカングラ各地に残る放置茶園を整備し、今後10年間で、現在の10倍の規模にする計画が進んでいます。

カングラのお茶が日本でほとんど無名だったのにはもう一つの理由があります。

それはカングラのお茶のメインターゲットは世界の紅茶市場ではなく、アフガニスタンを中心とした中央アジアの緑茶市場なのです。
ライバルは中国緑茶。けっして日本人向きの緑茶では有りません。
ですから日本に輸入しても売れるような味では有りません。日本市場に特化した日本の煎茶は世界に稀に見る美味しい緑茶です。
カングラの緑茶が日本市場に受け入れられる事は無いでしょう。

しかし、紅茶は別です。
航空写真で明らかなように、気象条件はダージリンと大きな違いは有りません。
茶樹も同じクマーウーンから来たもの。基本的に栽培条件はダージリンと同じなのです。

カングラをお茶の産地として復活させるため、何より必要なのは優秀な製茶技術者です。ダージリンなどで経験を積んだ優秀な製茶技術者なのです。
インドの茶園マネージャーは基本的に契約制です。オーナーが茶園マネージャーとなり、直接製茶に関わることも有れば茶園マネージャーがオーナーに気に入られ、十数年にわたって同じ茶園で仕事をする事も多いのですが、基本的には契約が済めば他の茶園移る事も多いのです。
カングラにも長年ダージリンで経験を積んだ製茶技術者が来ている事は、想像に難くありません。

ダージリンと同じような地形、同じような気象条件の土地に、ダージリンと同じルーツを持つ茶樹が有り、長年ダージリンで経験を積んだ製茶技術者がいれば、ダージリンと同じレベルの紅茶が出来るのは当然です。

リンアンではダージリンのシーズンティーと一緒にカングラの紅茶のサンプルが届きます。
ですから、カングラとダージリンを一緒にテイスティングをするのですが、どれがカングラだと知らせずに「どれが一番好き?」と聞くと、8割くらいの確率で、「これ」と答えるのがカングラ・ワー茶園なのです。
「ダージリンと同じレベル。」というより、「ダージリンの最上の紅茶と同じレベル。」という方が正確でしょう。

カングラの紅茶の美味しさはそのレベルなのです。

しかし、かって壊滅したと言ってもいい、日本では全く無名の産地の為、非常に安く買えるのがカングラの紅茶です。
ですから、ダージリン好きなお客様には、これ以上は無いと言って良いほどお勧めなのがカングラの紅茶です。

そのカングラの紅茶が日本でどのように紹介されてきたかの歴史も少し振り返ってみましょう。

2001年に有る紅茶屋さんがインド、ダージリン、アッサムに出かけました。
アッサムで泊めていただいたのは、あのチャールズブルースと、カルカッタ植物園のウォーリッチ博士が作ったアッサム最初の、中国種の茶樹の残るジャイプール茶園でした。
その夜、茶園オーナーのディレンドラクマール氏から、驚く提案が有ったのです。
「あの中国から来た茶の木だけで、当時の製法で紅茶を作ってあげようか。」あの東インド会社が作ろうとしていた紅茶が再現される!
その紅茶「ブルースティー」と名付けられた紅茶は、京都のメランジェさんと一緒に販売されました。

その紅茶屋さんは、アッサムの次はクマーオーンで成功したと言われる紅茶の再現を目指したのです。
ところが、現在クマーオーンでは自家用に製茶している農家は有っても、市場に流通している紅茶を作っている茶園は有りませんでした。
その時、ディレンドラクマール氏から、「近くにカングラという産地が有るがどうだ?」と提案が有ったのです。
サンプルを取り寄せてみると、予想以上に美味しい。ダージリンに遜色ない美味しい紅茶でした。
それが日本でカングラという産地の紅茶が、カングラの名前で発売された最初の紅茶です。

もうお分かりですね。その紅茶屋こそリンアンなのです。

当時、リンアン以外でカングラのお茶を調査に出かけた紅茶屋さんがいました。
浜松のザインという紅茶屋さんの金丸さんです。「アッサム紅茶史」などの著書で著名な元愛知大学教授、豊茗会という茶の研究団体の会長の松下智先生と共に世界各地の原産地調査にも積極的に参加されていた方です。
その金丸さんがカングラを訪問し、調査の報告会のためにインターネットでカングラの情報を探されたのです。
が、その金丸さんから聞いた言葉は、「堀田さん、カングラの情報、あなたのところしか出てこないよ。」と。
リンアン以前にもカングラの紅茶が日本で売られていた可能性は否定できません。たぶん有るでしょう。
でも、少なくとも、日本でカングラの紅茶を広めたのはリンアンです。

カングラ・ワー茶園から写真を送っていただいたのでご紹介しましょう。
ワー茶園での茶摘みの写真です。


ここでご注目いただきたいのは茶畑に生えている木の太さです。
これらの木は日陰樹(ひいんじゅ:シェードツリー)と呼ばれ、日陰の方が茶樹の生育がいい事から植えられている木です。
前述のチャールズブルースが、木陰の方が茶の生育がいい事に気づいて始めたと言われていますが、世界最初の茶の本と言われる茶経(760年前後)にも、既に日影が茶樹の生育に適しているとの記述があります。
そんな日陰樹なんですが、これほど太い日陰樹は、中国種の茶樹が残るアッサム・ジャイプール茶園でしか見たことが有りません。
この日陰樹こそ、ワー茶園がインドでも最古級の歴史を誇る茶園だという事を示しています。

茶園以外のカングラの風景はこちらでご覧ください。
インドに単身赴任されていた丹下誠司さんの素晴らしい写真集がここにあります。その素晴らしさが非常によく分ります。
そして、ダージリンに行った経験のある方は、そのそっくりな景色が懐かしい事でしょう。
人々の顔がネパール系ではなく、アーリア系の顔では有りますが。
■ インド通信特別編 雨季のヒマラヤ点描  撮影・原作丹下誠司 ■

そして、そのカングラの紅茶のお求めはこちらで。

 - 紅茶