アフタヌーンティーを始めたのはベッドフォード侯爵夫人なのか?
優雅なアフタヌーンティー。
それを始めたのは、第7代ベッドフォード侯爵夫人のアンナマリアだと言われています。
それは本当でしょうか?
それ以前にはそういう風習は無かったのでしょうか?
実はそういった風習自体はそれ以前にも有りました。
ここに1935年に出版された『ALL ABOUT TEA』という本が有ります。
1935年に出版されたこの本は、現在も続くお茶とコーヒーの専門の国際的な商業雑誌である『Tea &. Coffee Trade Journal』の創始者である Willam H. Ukers がその人脈を使って書き上げた本で、現在でもこの本を超える茶の総合書は無いと言われる本です。
お茶の歴史を調べる人は、まずこの本に何と書いてあるか、というところから始めるとまで言われています。
当然、この本には、アフタヌーンティーの起源が書かれています。
そこにどう書いてあるか?
そのページを画像で掲載させていただきます。
ここには、アンナマリア以前の記録として、
Thomas Southerne(トーマス サザーン)著『The Wives Excuse』1692年
Madame de Sévigné(セヴィニエ夫人 1626ー1696年)著『thé de cinq heures』
DR. Alexander Carlyle(Dr.アレキサンダー カーライル 1722-1805年)著『Auto-biography 自叙伝』
をあげています。
『The Wives Excuse』と、『Auto-biography』は、探し出して該当部分を読んでみました。
カーライル博士の『Auto-biography』では、「We had two haunches of venison twice a week during the season. The ladies gave afternoon’s tea and coffee in their turns」と書かれており、Ukers はこれが「アフタヌーンティー」という最初の言葉としているようです。
ただ、前後を見ると有償のようですし、これが社交のティーかどうかは分かりません。
サザーンの『The Wives Excuse』は、完全にティーパーティーの場面で、ChatGPTで翻訳させたらこうなりました。
フレンドール
ご婦人方、この庭園のフレスコ画はいかがですかな?
あの丘でお茶を飲めば、この近所の羨望の的になりますぞ。
ウィットウッド
まあ、なんて気の利いたお考えでしょう!
フレンドール
さて奥様、どのお茶にいたしましょう?
フレンドール夫人
皆さまのお好みで結構ですわ、フレンドールさん。
フレンドール
普通のカントン茶か、ナンキン茶か、ボヒー茶か、ラセローン茶か、サンロー茶か――さて、どれにしましょうかな? はは!
ウェルヴィル
「ノン・アモ・テ」という茶はありますか?
フレンドール
いや、それはございませんな。今年はこちらへほとんど入って来なかったのです。
ですが、委員会にかなり顔の利く友人がいて、缶いっぱい手に入れてくれる約束になっております。
ラヴモア
それならボヒー茶で結構ですな。ボヒー茶で十分でしょう。
これは戯曲なのですが、これが、ベッドフォード侯爵夫人のアフタヌーンティーの1842年の150年前の話なのです。
この時代に既にこれだけの種類のお茶を集めてティーパーティーをしているのです。
ナンキン カントンは、南京、広東で集積され出荷されたお茶でしょう。
ボヒーはBOHEAで、福建省武夷山を指し、現在の武夷岩茶、もしくは正山小種(ラプサンスーチョン)と思われます。
サンローは、安徽省黄山市の松蘿茶と言われています。
ラセローンは現在のどのお茶か分かっていません。消えてしまったお茶かもしれません。
ベッドフォード侯爵夫人の150年前にこれだけのお茶を集めてティーパーティーをしてるって、驚愕の事実です。
Madame de Sévigné(セヴィニエ夫人)の『thé de cinq heures』は娘のグリニャン夫人にあてて書いた手紙の中の一節のようですが、まだ探し切れていません。
手紙となっていますが、1回が数百ページにもなっていて、様式としては完全に文学作品です。
この頃のフランスでは、出版とは卑しいものとされていたそうで、文学作品は手紙の形で回し読みだったそうです。
それはともかく、Ukers はこれらをベッドフォード侯爵夫人の前のアフタヌーンティーとしているのです。
今度は、『ALL ABOUT TEA』を離れてベッドフォード侯爵夫人の前のアフタヌーンティーの例を探してみましょう。
「Afternoontea」と呼ばれる前は何と呼ばれていたかというと、「O’clock Tea」でした。
4時のお茶「Four O’clock Tea」、5時のお茶「Five O’clock Tea」です。
ですから、古い文献を探すときは、「O’clock Tea」で探すのです。
例えば、イギリスの中央刑事裁判所のデータベース Old Bailey Online は、1674年から1913年までの判例を検索できます。
ここで「O’clock Tea」を検索してみると、この判例を見つける事が出来ます。
ここで、エリザベスハリントンさんは、「When I returned between four and five o’clock, to tea:4時から5時の間に、お茶(tea)を飲むために私が帰った時」と証言しています。
被害者のハリントンさんは、4時から5時のお茶をしようとして家に帰っているのです。
この事からも、この頃既に4時、5時のお茶の習慣が有った事が分かります。
この絵のタイトルに注目してください。「寺院でのコンティ王子との英国式お茶会」。
1766年に、ミシェル・バーテルミー・オリヴィエという画家が描いた絵です。
寺院というのは、 パリのタンプル宮殿だそうで、当時の所有者は第6代コンティ公爵。
手前のチェンバロを弾いているのは、若きモーツアルトだそうです。
実はこの頃、フランスではイギリスの茶会を真似るのが流行ったそうで、この絵の存在自体がこの当時のイギリスで茶会が盛んだったことを証明しています。
実は、1780年に、もっと面白い、笑ってしまうような、とんでもない場所で行われた、そして確実にアフタヌーンティーだと言えるものが書かれた資料も見つけてあるのですが、それは今書いている本のネタとして取っておきます。
現在、殆どの書籍、ウェブサイトには、「アフタヌーンティーはベッドフォード侯爵夫人が始めた。」と書かれています。
しかし、違う由来を書いている書籍も存在するのです。

この本は、1976年にスイスの Editions René Kramer社が出版した、ビュッフェ料理とレセプション料理のレシピ本です。
世界中の料理人の協力を得て書かれていて、総ページが1,100ページを超えるレシピ本のバイブルのような本です。
こんな料理まで載ってます。「Riz au Poulet et à l’œuf 」。日本名を「親子丼」と言います。^^;;
この本のP71にハイティーの項目が有り、その中で「アフタヌーン・ティーは昔《サロンのお茶》と呼ばれ」と書かれています。
昔は宮廷を中心に、「サロンティー」の文化が有り、それが元となっていると書かれているのです。

その前のページにはアフタヌーンティーの事が書かれているのですが、ベッドフォード侯爵夫人の事はどこにも書かれていません。
この「サロンティー」の目で見てみると、「寺院でのコンティ王子との英国式お茶会」は、まさにこの「サロンティー」ではないでしょうか。
つまり、アフタヌーンティーは決してベッドフォード侯爵夫人が最初に始めた訳ではなく、それ以前にそういった茶の文化、茶の習慣は有ったのです。
もう一度、最初の Ukers の『ALL ABOUT TEA』の記事を読んでみると、どこにも「ベッドフォード侯爵夫人が始めた。」とは書いてありません。
そして、世間一般に「ベッドフォード侯爵夫人が始めた。」と言われるようになった理由まで書かれています。
それは女優のファニーキャンベルさんが、回顧録の中で「1842年にラトランド公爵の居城であるベルヴォア城でアフタヌーンティーを初めて知った。」と書いています。
そして、「現在では広く親しまれているこの習慣が、これよりも古い時代にまで遡るとは思えない。」と添えています。
つまり、ファニーキャンベルさんがそれ以前のサロンティーの文化を知らなかっただけだ、とも言えるのです。
この時ベルヴォア城に住んでいたのがベッドフォード侯爵夫人のマリアアンナなのです。
とはいえ、Ukers も書いているように、この頃から急激にアフタヌーンティーが盛んになっているようです。
その急激な変化のキーポイントの位置にベッドフォード侯爵夫人がいた事は間違いないでしょう。
何故この頃から急激にアフタヌーンティーが流行り始めたか考察してみましょう。
残念ながら、何故この頃から急激に流行り始めたかという資料は見つけられていませんが、AI Geminiがいくつかの要因を挙げてくれました。
最初に、Geminiが挙げてくれた要因ではないですが、「ビクトリア女王がこのマリアアンナのアフタヌーンティーを奨励した。」という話が有ります。
これも資料が有りません。
しかし、ベッドフォード侯爵夫人はビクトリア女王のお気に入りの侍女:女官だったようです。
そしてビクトリア女王自身もアフタヌーンティーを楽しんでいたようですので、それによって急激に普及したと考えてもおかしくは有りません。
時代的な背景もアフタヌーンティーの普及を後押ししています。
まず第一に17世紀には、茶は非常に高価で女主人が大事に鍵付きのティーキャディに入れて自ら保管していたくらいです。
王族や大富豪くらいしか楽しめなかった紅茶が、この頃には貿易の拡大や、インドでのお茶栽培の開始(当時はイギリス領ですから、国内生産という事になります。)などにより、お茶の値段が下がり、ある程度上流の家庭なら楽しめるようになった事が挙げられます。
一番の要因はこれだと考えています。
他には、ガス灯の普及で活動時間が遅くなり、それにつれて夕食の時間もどんどん遅くなり、空腹を満たす必要が出てきた事。
そして、この頃に鉄道網が発達し移動が速くなった事により、情報の伝達速度も速くなった事。
でも、一番の要因は、やはり茶の価格が下がり、有産階級であれば誰でも、あの憧れのサロンティーが楽しめるようになったためでしょう。
という事で、アフタヌーンティー(5時のお茶、サロンティー)の文化は、宮廷や一部の有産階級の文化として、昔から(おそらくポルトガルから嫁いだ キャサリン オブ ブラガンザ がイギリス王室へ持ち込んだ。)有ったもので、それが社会的要因の変化によって急激に広まったターニングポイントの位置にいたのがベッドフォード侯爵夫人のマリアアンナだったという事でしょう。
マリアアンナは、遅くなった夕食までの空腹を満たすために、最初は一人だったのかもしれませんが、すぐに本来の社交のティーを始めています。
初めてアフタヌーンティーを知ったファニーキャンベルさん達を誘って。